• はじめての文楽

「文楽と人形浄瑠璃の違いって何?」と思っているような無知なやつ。

去年、淡路島に行った時に、淡路人形浄瑠璃館で『傾城阿波の鳴門』を見る。といっても、観光客向けにほんの一部、クライマックスの部分だけ。鑑賞の後、人形の遣い方の説明があって、実際に人形を持たせてもらう。

これがなかなかおもしろかったので、機会があれば文楽なるものを見に行きたいと思っていたら、何度か見に行っている友人が、大阪の日本橋にある国立文楽劇場のチケットを取ってくれたのだ。

演目は、『日吉丸稚桜(ひよしまるわかきのさくら)』と『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』。

浄瑠璃を語る人のこと太夫というらしい。この声がちゃんと聞き取れるのか心配していたんだけど、これは思っていたよりも聞き取りやすいし、舞台の上の方にかなり大きな字で字幕も出る。後ろの方の席だったんだけど、声が通るのでよく聞こえる。

見せ場になると、浄瑠璃を語る男性がかなりなハイテンションで、声を張りあげてどんどんどんどん盛り上がっていく。それはものすごく迫力満点で聞き応えがあるんだけど・・・

舞台上に数体の人形があがっていても、話の中心になっている人形以外はほとんど静止状態。登場する人形のセリフが浄瑠璃で語られるので、みんなが動くと誰のセリフなのかわからないというのはよくわかるのだ。しかし、黒子さんは顔が見えないからともかくとして、ガシラを操る人形遣いの人たちは顔をさらしているのに無表情。観客席も静かなので、見ていて、「あのおっちゃん(>浄瑠璃語りの)、一人で盛り上がっているよ」という奇妙な状態に思えてくるのだ。

と、ここまで書いて、自分が根本的に人形があまり好きじゃないからかもと思ったりもする。これが、動物のパペットかなんかだったら、例え動いていなくても、食い入るように見てしまうのだろうか・・・。

さて、覚え書き程度に演目の粗筋と感想を。

『日吉丸稚桜』は、木下藤吉(木下藤吉郎、幼名日吉丸後に豊臣秀吉)が出世してゆく過程がつづられたもの。

演じられたのは、そのうちの「駒木山城中の段」で、ここでは鍛冶屋五郎助親娘の悲劇が描かれている。それまでの話の簡単な説明はあっても、いきなり話の途中からはじまるので、人間関係がよく理解できない。誰が誰だかすらわからないまま話が進む。それでもクライマックスの盛り上がりは見ごたえがあり、娘を死なせる五郎助の辛さがよく伝わってくる。ただ、五郎助の子供がまだかなり幼いのに、五郎助夫婦は父母というより、祖父母の年齢に見えて、最後まで「この子は誰かの忘れ形見を預かっているのか?」としか思えなかったので、余計に人間関係がわかりにくかった気がする。

そして、『桂川連理柵』。これは「世話物」といわれるもの。

分別盛り(40歳手前ぐらい?)の京の商人・長右衛門と、隣家の娘・お半(14歳だったと思う)とが旅先の石部宿(滋賀県)でふとしたことから犯した過ちから始まる物語。

下世話なネタなので、話の内容はわかりやすいし、おちゃらけた丁稚など笑える登場人物もいる。しかし、話の展開がものすごくくどい。「もうそこはいいから先に進もうよ!」と何度も思い、ちょっとうとうとしてしまって、ハッと気がついても、あんまり話が進んでいない。特に、京都に戻ってきてからの商家を舞台にした部分がくどくて、長右衛門と妻・お絹の「慈愛溢れる夫婦のやりとり」というのも、「大きな感動を呼ぶ」どころか、なんともしっくりしない展開だった。

それでも、終盤の複数で浄瑠璃が語られる場面は、「これぞ文楽の醍醐味!?」・・・と、はじめて文楽を見たやつでも思ってしまうすごさで、最初に見る演目としてはよかったのかも。

独特の雰囲気は体験できたので、次に見る時は、もっと気持に余裕を持って見られそう。教訓 ―― 前日は充分に睡眠を取ること!



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Last-modified: 2008-04-25 (金) 19:43:44 (5838d)